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「表情に富んだささやきのような声が伴奏のブラジルのリズムやフラメンコやルンバ。素晴らしい。」
.........DIEGO MANRIQUE, el pais de las tentaciones誌(スペイン) 「その音楽はフラメンコの音とミニマリスト・ポップで魅了される。」..........エル・ムンド新聞(マドリッド、スペイン) ※min・i・mal・ism: n. (特に芸術分野での)ミニマリズム, 最小限表現主義 ((最小限の表現で最大の効果を上げようとする方法論)) 「キャシー・クラレは最も国際人で、フラメンコを引き受けたジプシーを提供する」 ...........LUCIA BELTRAN, FLAMENCO 2000 「不思議なことに親しみがあると同時に違っていて、どうやってキャシー・クラレを表すことができよう」.........J.M.D. LA MARSEILLAISE (フランス) 「ジプシー達は彼女をお姫様の様に崇拝する」.......MIDI-LIBRE (フランス) 「キャシー・クラレは他に努力しようという本質に憑かれており、彼女は芸術家の中の芸術家だ」........PEDRO BARROSO、ア・ベ・セ新聞(マドリッド、スペイン) 「彼女はナイーブさを保った放浪の芸術家だ」 ............JORDI BIANCOTTI、エル・ペリオディコ新聞(バルセロナ) 「全く輝かしい才能ある芸術家だ」.........INTERVIU 「正確に混じり合った、ブレンド」.........J-M DOUILLARD (フランス) Herstory 同じ場所にとどまることのないボヘミアンな家族の中、キャシーの人生はフランスの地中海から始まった。 3つの大陸を旅し、彼女の家族は30都市以上、大体がフランス、スペインとアメリカで生活していた。 母親は若くして亡くなり、キャシーは10代の頃から自分の人生をディレクションしてきた。 音楽界へのデビューはフルートとエレクトリック・ベースの演奏者として、彼女の放浪の生活を表現するものとなった。すぐにキャシーはセルフ・メイドな音楽家となり、トイ楽器(パスカル・コムラードなどと共に)で構成されたバンドのパートを受け持つようになった。 同時に、小規模なルンバ&フラメンコのグループでのいくつかの結婚式とフェスティバルで演奏した。そこで、後に「ヌエボ・フラメンコ」※の創設者と認められる音楽家を知ることになった。彼女は彼らのファミリーの"養女"にされた。パタ・ネグラのアルマンド兄弟との交友はこの頃に遡る。 ※Nuevo-flamenco:1980年代から現代的なものと伝統的な音楽(ポップスやロック、ジャズ他)に影響を受けた若手のフラメンコ・ミュージシャンの間で起きた新しい動き。 「アストラッド・ジルベルト風ボサノバに出会ったフレンチポップ味の甘いキャンディ」 「ほんの少しのミニマリスト・ポップによる雄弁なささやきのような声」 彼女は十分に自身の音を開発した。 ソングライターとして、音楽家として、彼女は沢山のレコードに参加している。 作曲家/訳者としては2枚の12"シングル、3枚のアルバムに参加した。 最初にリリースされた12"盤「Porque, Porque(なぜ、なぜ)」はやはりカマロンと共演したことのある元パタ・ネグラのライムンド・アマドールと、2枚めのシングル「El Coler (エル・コロール)」はパタ・ネグラと共に録音された。 ファースト・アルバムは「Cathy Claret(邦題:「あなたに」)」1989年にリリースされた。※日本盤は1990年リリース。 2枚めの「Soleil Y Locura(邦題:「風に抱かれて」)」は1991年、ライムンド・アマドールがプロデュースした。 3枚めになるアルバム「La Chica del Viento(邦題:エスペランザ)」はカマロンやパタ・ネグラと共にフラメンコ復活をリードしている非常に革新的なソングライター/音楽家のキコ・ベネーノによりキャシーが復活した。 キャシーはライムンド・アマドルに「Bollore(ボヨーレ)」を提供した。彼はB.B.キングとこの曲で共演し、ヒットした。そして、この曲によりキャシーは1999年のスペインでのベスト作詞家/作曲家賞にノミネートされた。 そして今、彼女は新しいアルバム「Esperenza」※を伴って戻ってきた。 ※「La Chica del Viento(邦題:エスペランザ)」日本盤のことです。 |